(22)K.ka(夫)の場合昭和53年2月、私はO設備在職中、◯と世帯をもちました。昭和55年4月、国金100万借入れして◯設備業をたちあげ夫婦として頑張りましたが、 昭和58年3月、経営手腕の未熟から家族に迷惑をかけ、 ◯は債権者16社借金400万で自己破産、 平成3年10月17日(平成3年「モ」◯◯◯4号)免責に至ったのです。 昭和58年4月、受注先の◯設備工業(H18.10.現在手取27万)にお情け就職。 しかし事業失敗の残借金200万だけは◯の自己破産にも関わらず減りませんでした。 そのうち家計のやりくりは子供の学費にもこと欠き、苦労が連続しました。 平成6年6月、◯が次男のお産で◯コミュニケーション退社。 育児が始まると◯の仕事はなく私の収入では火の車でした。 平成8年やむえず家計のため◯がAファイナンスから30万円を借りました。 平成11年9月、◯が現在の◯騎射場(手取9万)勤務しました。 平成13年、1月16日、 ◯名義で長女結婚費用にとK金庫100万(現残220万)借りました。 この頃、◯の借入は9件180万円に膨れていました。 とうぜん自転車操業はうまくいかず、あげく◯はヤミ金数社に電話したのです。 もちろん生活苦のためですが一時しのぎ融資は焼石に水、くわえ地獄でした。 平成14年11月、私は◯銀行に哀願して200万借入、全額借金返済しました。 ところが私が狭心症で倒れ2ヶ月の入院、手取は半減したのです。 しかも◯も子宮全摘出という病に倒れたのです。 病院題も借金支払もできず、これでは死んだほうがマシと考えるようになりました。 気まずい家庭環境がつづき生活苦は夫婦喧嘩の火種でした。 平成17年、◯はC金融会社から一本化を条件に200万を借用しました。 平成17年7月、子供二人が慣れぬ東京で仕事することになりました。 このとき親として生活安定の仕送りすることを過保護とは感じませんでした。 しかし苦しい家計からの金策はムリがあり再び◯はヤミ金を。 やがて平18年7月、 債権者11,借金総額6.836.121円で◯は2度目の自己破産を申立 (平成18年フ第◯◯◯9号)完全に家計は破滅しました。 結局、夫婦の借金原因は事業失敗を端に病と子に対する過保護からきた生活苦です。 しかもこれで終りではなく、まだ11才の次男を見届ける責任があったのです。 その可愛い次男となんで夜逃げ、一家心中することができましょう。 とはいえこのままでは将来が見通せない借金地獄で弱気になっていくのは確かです。 口では簡単に自己破産といえますが、 ◯につづき私までが迷惑かけることは間違いです。 もとろん、せめて私だけはと頑張ってみました。 でも、長男、二女の援助をうけても毎月5万不足では限界です。 この4ヶ月悩んだすえ、 ◯と二女、そして長男にも「もうダメだ」と結論を告げました。 傍らの◯と二女は黙って泣いていました。 現在の心境は夫婦して情けなく、債権者様に申訳ない気持で一杯です。 上記の自己破産申立書P10~11は真実をfiction的に要約転記したものです。 本人の談話 その後のK.kaさん「一からやり直し体も元気になった」との連絡でした。 |